ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

正義とは、人としての在り方を問うことだ。

正義を取っ掛かりに考えてみた。

何を以て「正義」とするのか?

 

前々から「正義」とは何であるのか、気になっていた。

正義があるならば、悪があり、間違いがある。

ならば、これぞ「正義」はあるのではないか?

 

「私は間違えている」、と頭の片隅に置きながら生きている。

私自身が何を以て正しいのか、分からないからだ。

何が正しいのか、間違っているのか、判別できない。

正しさが分からない私には、「正義」は難しい。

 

「正義」とは言葉通り読み解くならば「正しい義」である。

「義」は「人として守るべき道、道理、条理、教え」だ。

即ち、正義とは「人として守るべき正しい道、正しい道理や条理、正しい教え」だ。

 

では、人として守るべき道とは、何であろうか?

道理や条理は何であろうか?

先人の教えは何であろうか?

 

「正しい」という言葉があるのだから、人としての道には間違いがある。

道理や条理にも間違いがある。

先人の教えにも間違いがある。

 

何を以て、この道は人が守るべき正しい道と判別できるのだろうか?

何を以て、この道理や条理は正しいと言えるのだろうか?

何を以て、先人の教えは正しかったと判別できるのだろうか?

 

例えば、多数が形成する道は正しい道なのだろうか?

100人中99人が「人を傷付けてはいけない」と言えば、それが正しい道か。

マジョリティが正しければ正しい、と書くと違う。

 

100人中99人が「人を傷付けても良い」と言えば正しくなるのは、間違いだろう。

たった1人が「人を傷付けてはいけない」と説くのが間違いとするのは乱暴だ。

正しさを封じるのに多数は用いられるかもしれないが、多数だから正しいとは言えない。

 

感情で正しい、間違いで判断するのは違う。

感情はその時々で波がある。

ゆらぎのある感情でその時の気分で正しさを説くのは、「そういう気分だったから」と感情にフォーカスされて、「正しさ」から遠ざかる。

 

時代によって正しさが変わる。

昭和の頃は暴力も正しい指導の範囲内に入っていた。

しかし、令和の今は動画を撮られて非難される。

 

昭和の頃から暴力は非難されていた、という意見はあるだろう。

しかし、少なくとも強豪校の指導が明るみになる度にそうした指導を肯定されていた時代はあったのだ。

時代によって正しさが変わってしまうのは、本当の正しさなのだろうか?

 

生物的正しさで言えば、生存することが正しい。

生存するために外敵は殺すのは正しいのか?

食べるために動物を殺さなければならない、そうしなければ死んでしまうから。

殺すのが悪ならば、生存は悪となり、存在自体が間違いになる。

生物としては正しさは、人として正しさとは別のようだ。

 

資本主義に基づいた正しさで言えば、稼ぐことが正しい。

しかし、稼げない人々は総じて間違っているのだろうか?

また、資本では測れない「正しさ」に資本的価値は見出せるのか?

先の定義の「人として守るべき道」に資本的価値で測るのは、できるだろうが正しさとは違う。

資本主義としての正しさは、人としての正しさと別ではないか。

 

法律に基づいた正しさで言えば、法が定めた権利を守ることが正しい。

法を定める国が暴走しない、と言い切れるのか?

2022年4月時点で、ロシアがウクライナに侵攻している様を見て、国や政府の信用は私が想像するより脆弱ではないか、疑ってしまう。

法律としての正しさは、人としての正しさとは違うのではないか。

 

そも、人としての正しさを語るには、「人」の定義が定まらないといけない。

「人」とは何か、相対される存在ではなく、絶対としての「人」とは何であろうか?

そのことを考えるのに、「人」は何で構成されているのかで考えてみた。

 

私は様々な諸パーツで「私」を構成している。

私の身体は血、髪、皮など様々なパーツの組み合わせで私の身体を構成している。

その諸パーツの一つにに私の自意識、精神がある。

様々な身体的諸パーツに精神が組み込まれていて、それらすべてで「私」を成している。

 

この私は人である。

即ち私の身体は人の身体である。

人の身体である血や髪、皮の組み合わせで構成され、人を成している。

 

蛇の血や、犬の毛、鮫の肌ではない。

血も毛も肌も人である。

その諸パーツの一つに人としての自意識、精神がある。

 

身体が人であると言えるのは、見た目からではなく、人としての自意識、精神があるからだ。

奇病の方を構成する諸パーツに人としての自意識、精神があるから 、人なのだ。

この自意識は猿の自意識でも、蟻の精神でもなく、人の自意識、精神だ。

 

「正義の反対は別の正義」というのは個々人の信念に基づいている 。

個々人の信念は、個々人の自意識、精神が土台にあるだろう。

個々人の自意識、精神は私の自意識、精神であり、私の自意識、精神は人としての自意識、精神だ。

 

諸パーツという部品で人を捉えると、先に例として挙げた「生物」、「資本」、「法律」も人として構成するのに組み込まれている。

ならば、この身体、この精神が在ること自体が「正しい」とするのが人として「正しい」になるのではないか?

私は私の存在を間違いとしているが、これは私でもある人の存在を否定していたのかもしれない。

ただ在ることが正しいのであれば、正義とは「存在」ができることなのかもしれない。

 

存在を否定すれば、苦しく悲しくなる点から考えてみても、この正しさは人としての正しさと定義しても良いかもしれない。

殺人が否定されるのは人の存在の否定に繋がり、食べるための動物の殺害は肯定されるのは人の存在の肯定に繋がる。

今、ここに在ることが人としての正しさの根幹ではないか。

 

「人として守るべき道」、「道理、条理」、「先人の教え」もすべて人の存在がある。

人が存在しないのであれば、正義も存在しない。

人が今ここに在るから、正義は在る。

 

正義を語るならば、人として在ることを話すべきではないだろうか?

人として在ることの意味、意義が共有できなければ、正義は分からないのではないか。

思考は違えど、私と相手は同じ人であるはずで、その前提を壊してしまったら、正義とはかけ離れはしないか?

 

様々な正義は、様々な個々人が在り、そのすべての個々人は人として在るという前提を共有して正義を規定できるのではないか。

相手を獣と見なして、自身を行いを正義として力を行使するのが正しいとは違う。

何故なら、獣のような振る舞いだとしても、相手は獣ではなく人として在るからだ。

相手には自意識、精神があり、その自意識、精神を人としての諸パ ーツの一部と考えるならば、相手も人なのだ。

 

自然を相手取った正義も、自身の人として在ることと、自然を破壊する相手がいる訳だ。

自然を破壊する相手も同様に人で在るならば、正義は人同士の対話が出発点のはずだ。

対面する相手が人でないのであれば、自身の信念を根拠に置こうとするだろう。

 

前述の獣と見なす人も、獣と見なせば自身の正義だけ考えれば良い 。

自身の信念、自身の自意識、精神であり、それは人としての自意識、精神が在る。

果たして、対面する側に人は無いのか?

対面する相手は獣なのか?

人とは何か、その存在を問うという原点から考えるべきだ。

 

私は未だに正義が何であるか分からない。

しかし、正義とは何か、その出発は見えた、かもしれない。

あえて、言い切る。

 

正義とは、人としての在り方を問うことだ。

 

私自身、私の在り方を常に問うている。

私の内面の追求者であり、即ち、人の自意識の追求者だ。

この出発点は私の自意識、精神だからであり、人の在り方の一つであり、正義だ。

 

私にとっての正義は「今を楽しむ」ことだ。

人生哲学を持つのは、一つの正義を持つのと同義だ。

私の正義は、人としての在り方の一つであり、常に問うべき問題だろう。

 

人としてどう在るべきかを問うことは「正義」のみならず、「平等」や「自由」の概念の基礎だ。

何故ならば、「平等」や「自由」は人が構成する社会に内在し、社会を構成する人が在るから「平等」や「自由」が問題として浮かぶのだ。

「正義」、「平等」、「自由」どれも大事ではあるが、その前に「在り方」をもっと考えるべきで、その深化がより良い人間に成ると私は考える。

私はどう在りたいのだろうか、人としてどう在りたいのだろうか、誰もが語れる平易な所から、正義を考えたい。

 

一先ず、ここまで。

青い部屋の真ん中で、私は祖母の夢を見た。

夢を見た。

亡き祖母が私の夢枕に立った、のだろうか。

 

炬燵のある4畳一間の部屋に私が居て、襖をそっと開ける。

襖の向こう側は歌舞伎の檜舞台のような景色が広がっていて、舞台端に役者が居る。

私が一度襖を閉めて、またそっと開けると目と鼻の先に先程の役者が居る。

私が驚いて襖を閉めて、炬燵に潜ると、先程の役者がどこからともなく入ってくる。

その役者が祖母だと私が認識して、私は祖母を抱き締める。

私の夢は映像先行で音声はない場合もあるのだが、その時に私は祖母の耳元で呟く。

 

「もっと生きていて欲しかった……ごめん」

 

そうした私に祖母は「僕はもう……」と言った。

ざらついた、ひび割れた、低い声音であった。

そうして、目が覚めたのが深夜2時だった。

 

起きてしばらく、呆然と座り込む。

あれは祖母だったのだろうか?

一人称が「僕」であったし、声音が幼さがある上に低かった。

顔もモザイクがかっていたように感じるし、確証はない。

 

しかし、もしかしたら、夢枕に立ってくれたのではないか、と仄か期待が膨らむ。

私がしっかりしていなければ夢枕に立つ、そう祖母が言っていた。

未だに自分一人どうにもできていない私を叱りに来たのだと、そう思いたかった。

 

青い部屋で部屋を見渡す。

雑多に散らかった部屋で、私は座り込んでいる。

あれが祖母だとして、私は祖母に何と言ったか?

 

汚らしい願望を祖母に伝えた。

夢枕に立った相手への言葉が我侭だ。

ひどく情けなく、それでも言わずにはいられない本心だ。

 

青い部屋の真ん中で、私は泣きそうになる。

漏れ出る言葉は「ばあちゃん、ごめん」は青い部屋に響かない。

何に対する謝罪なのか、感情が迷子になりながら、うずくまる。

 

悲しいが私の腹の底から出てきては「ばあちゃん、ごめん」と漏れ出る。

どうして私はこうなのだろうか?

12年経って、この体たらく、どうして私はこうなのか?

 

時間にして数分、悲しいの波が落ち着いて、私は大きく深呼吸する。

もう一度、雑多な部屋を見渡す。

性根を変えられない私だが、背伸びする努力はしよう、と考える。

 

青い部屋の真ん中で、私は祖母の夢を見た。

 

あれは祖母であったと、そうじゃなかったとしてもそういうことにしておく。

私の根源にあって、人間で在る私を呼び起こす、あの悲しいがそうさせる。

本物の祖母は、どちらにしても、12年も前に居ないのだ。

居ないのだ、私の生きるこの世界には、居ないのだ。

 

ばあちゃん、ごめん。

やっぱり、もっと生きていて欲しかった。

 

4月某日、庭に梅が咲く、青い部屋にて。

 

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祖母の十三回忌がある。

2022年2月、祖母の十三回忌がある。

祖母が亡くなって、12年が過ぎた。

12年、祖母が居ない日々が12年も過ぎた。


今年は姉も妹も帰省しない。

このご時世、仕方ない。

母と父と私の3人で法要する。

 

この12年、私はどれだけのことを覚えていられているだろうか?

この12年、私はどれだけのことを忘れてしまっただろうか?

涙も流せない自分の薄情さに胸糞悪くなる。

 

私にとって、祖母はどういう存在なのだろうか?

この世に実在したはずの肉体は小さな骨になって、 墓の下に眠っている。

「祖母」という形而上概念、 抽象的存在になっているような気がする。

 

私にとって「祖母」 は一般に悲しいという部類に分類される感情を想起させる装置なのかもしれない。

私の心の奥深くに根付き、「祖母」 を考えれば切々とした想いとなり、一滴の涙は出ないが、 目頭は熱くなり、そうした一連の流れに人間味を感じるための道具なのかもしれない 。

しかし、そうした客観視して装置として考える「祖母」の概念とは別に、どうしようもなく苦しくなって、「ごめん」と口走る私がいる。


何年も自分の奥底にあった空洞には何時の間にかヘドロのような汚れでしっかりと蓋をしているようであった。

それをごっそりとこそげ落とすと、胸が気持ち悪く感じて嘔吐き、吸った空気は新鮮な空気を私の空洞に流れ込んでいく。

そうしてまだ私には空洞があることを確認すると、安堵して、 そうして安堵している自分を軽蔑して、 空洞から沸き立って悲しみと、泣きたいのかどうなのか、「うう」 だの「ああ」だの呻きながら頭を左右に振って、微かに震える指を忙しなく動かして、ゆっくりと意識して、空洞から目を逸らす。


自分が人間らしいと感じるために「祖母」 を忘れたくなかったのか?

もうこの世に存在しない人間を自分のマスターベーションのために使用するために覚えていたいのか?

最悪過ぎて吐き気がするが、悲しいと思えることが嬉しくもある。


12年過ぎた、十二分に時間が過ぎた。

昔、本当に昔になった。

それでも私は今でも悲しい、悲しくて仕方ない。

 

祖母に会いたい、会って、話しがしたい。

未だに何も成せていないけど、笑ってあれこれ語りたい。

私の枕元に立ってくれる日を諦めていない。


今の私を形作った様々な出来事や関係の中で、祖母の影響は計り知れない。

今もはっきりと残る空洞が風化しないようにしたい。

もう声も匂いも私は感じられないけれど、「祖母」 を覚えていたい、私が朽ち果てるまで。

 


言語化できないこの感情は「愛」なのだろうか?

これが愛ならば、随分と身勝手で、重たく、迷惑な感情だ。

「エゴ」という名の方が世の辞書の記述と合致するから、「愛」ではないのかもしれない。


この執着は一体どこから来ているのだろうか?

最早、執念や情念ではないだろうか?

手放すつもりなど毛ほどもありはしないから、この感情を向けられている祖母はドン引いているかもしれない。


誰か覚えてくれているだろうか、祖母のことを。

誰か思い出してくれているだろうか、祖母のことを。

一人でも私の祖母を覚えてくれていたら、私はそれで良い。


私が突き動かす衝動は「楽しい」が主だ。

今を楽しむ、自分のセンスを信じる、私の衝動は基本は「楽しい」だ。

それとは明らかに別で、しかし確固たる強い衝動で書いている。


私にとって、書かざる得ない、書かなければならない、書くべき衝動だ。

人間が衝動で生きるのであれば、この「悲しい」が私の生きる根幹の一つだ。

祖母に生かされている、私の存在の形作っている。


2022年2月21日、祖母の十三回忌へ行く。

私のありったけの激情を持って、心静かに行く。

12年、色々と変わったが、何一つ変わらないと誓って。

 

ばあちゃん、愛しています、心から。

 

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1467

そろそろ6月になろうとしている。

しかし、まだ去年の分が終わっていない。

2021年が終わらないまま、半年が経ちそうだ。

 

半年分、約30日の6倍、180記事が書けていない。

書けるのか、いや、書くのだけれど。

6月になったら、ざくざくと進める。

 

進まない要因は分かっている。

文章を書く時間より演劇に割く時間が増えているからだ。

今も演劇関連のやりとりに時間を使う。

 

演劇で時間を使うのは私にとっては良いことだ。

ただ、当ブログでのサボり加減はちょっとどうなのだろうか?

自分の考えをまとめるのに時間がかかりすぎている。

 

1記事にかける時間がそれなりにかけているから、遅れが取り戻せずにいるのもある。

適当に適当なことを書けば良いのに、どうした私?

焦っても仕方ない、有限の時間をかっぽかっぽ切り分けて、やりたいことをやる。

 

何が大事で、何が後回しにすべきか。

私の時間が演劇が圧倒していく。

楽しいから良いけれど、放置される当ブログが何とも憐れにも感じる。

 

雨の季節がそろそろ近付く5月24日かな。

1466

晩春、小雨降る、安曇の地にて、絶賛自分を見つめ直し中だ。

役者としての自分とは何だろうか?

副主宰がプロフィールプロットを画像で送ってくれたので、参考に書いてみた。


私のプロフィールは1987年5月24日生まれ、本年2022年で35歳だ。

卯年、双子座のA型、長野県安曇野市在住である。

演劇歴は3年目、芸名にあたる呼び名はカミちゃんだ。

 

顔の長所は、口が動く。

顔の短所は、眉毛が薄く、目が細い。

口が動くから全体の大雑把なのは伝えられるのではないか?

 

私の身体の長所は、ぐねぐね動ける。

私の身体の短所は、猫背、細い。

関節が比較的柔らかめなのは、怪我しにくいだろうが、猫背だから肺活量が少ない。

 

私の性格の長所は、自分のことを考えられること。

私の性格の短所は、自分のことしか考えないこと。

私は私を追求するのが、良くも悪くも私らしい。

 

役者としての長所は、一人で舞台上で動ける。

役者としての短所は、滑舌が悪い、相手を見ない、落ち着きがない 。

役者としての私の魅力は、飛び道具として優秀なところだろう。

 

さらさらと書いて最後の項目で指が止まる。

「あなたの将来どんな役者になりたいですか、具体的な例を挙げて、書いてください」

将来、どんな役者になりたいか?

 

考えたこともなかった。

舞台の上に立てれば、それで良かった。

役者を前向きに取り組むと決めたばかりで、どんな役者になりたいか、何もない。

 

しかも具体例を出せと。

誰を参考にすれば良いのか分からないし、誰かを参考にするのも違和感がある。

私は私、他の誰かは参考にできない。

 

これは、普通はあるものだろうか?

演劇歴が短いから、まだそういう理想像が構築されてないのか?

舞台に立つ経験が増えて、人間としての厚みが出れば、どんな役者になりたいか定まるだろうか?

 

分からない、自分のことなのに迷宮入りだ。

とてもじゃないが、自分のなりたい役者像が無さ過ぎる。

幽霊の影を探すような、役者像の無さだ。

 

今度、誰かに相談すべきか? 

いや、しかし、雲を掴むようなものだ。

ふわふわして浮いてばかり、そも、役者とは何だろうか?

 

晩春、小雨降る、安曇野の地で、絶賛迷子になりに候う。