「名前」と「私」の関係を取っ掛かりに考える。
帰路の途中で立ち止まる。
長い旅路になるのは、もう分かっている。
月でも眺めながら、のんびり休むことにする。
休みながら、頭は想像する。
「私」とは一体、何なのか?
記憶するのにあるシステムの一部なのか?
「名前」と「私」は、繋がりがあるのだろうか?
それとも、「名前」と「私」には、何の関係もないのだろうか?
「名前」とは、一体、何なのか?
またぞろ、「私」について思考している。
月もぼんやり浮かんでいるし、ぼんやりと進めてみようか。
最近、考えていることを、そぞろ書く。
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目次
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1.「私」とは何か?
「私」とは、私の自意識である。
私の自意識は、私の意識に内包されている。
手の先に意識を向ける、遠い山に意識を向けるなど、意識は感じられるモノすべてを対象にしている。
その中で自意識、即ち、モノを感じている意識そのものに意識を向けているのだ。
私の意識が、私の意識を意識した時に現れるのが、「私」なのだ。
これは、入れ子構造でもある。
最初に肉体、身体がある。
その身体に意識が内包されている。
その内包された意識に内包されているのが、自意識、「私」ということだ。
2.「名前」とは何か?
「名前」は万物に意識を向ける際に用いられる。
花、と言えば、野原に咲く植物だ。
鳥、と言えば、青空を飛ぶ動物だ。
風、と言えば、空気が流れる気象だ。
月、と言えば、夜空に浮かぶ衛星だ。
更に、「名前」はより細部に向かう。
花なら桜、梅、菊、椿、藤、萩、桔梗となる。
鳥なら雉、鳩、鶴、朱鷺、鷹、雀、烏となる。
風なら、嵐、海風、つむじ風、颪、そよ風、春一番、凪となる。
月なら、新月、三日月、十三夜月、満月、十六夜、下弦の月、三十日月となる。
「名前」は曖昧なモノを明確にする働きがある。
私の自意識を意識するために、「私」と「名前」は紐付けられたように感じなくもない。
では、本当にそうなのか?
3.もし、私が別の「名前」を呼称したら?
例えば、私は自らを「上の小枝の怠け者」と呼称している。
これを実在する人物の名前で呼称し始めた、とする。
実在する人物の名前を仮に「働き者」としよう。
実在するから、「働き者」さんのことを知っている人からすれば、私は偽名を使っているのは明らかだ。
「働き者」さんにしたら、自身が「働き者」なので、同姓同名でない限り、自分こそが本物で、相手である私は偽者となる。
では、「働き者」さんのことを知らない人Aさんに呼称したとしよう。
すると、Aさんにとっては、私の名前は「働き者」になる。
「働き者」さんと言えば、私になるのだ。
しばらくして、Aさんが「働き者」さんに会ったとしよう。
すると、「働き者」さんは「働き者」さん本人なのだが、Aさんにとっては目の前の人物こそが偽称している人間になるのだ。
「働き者」さんが自身こそが「働き者」である証明をして、初めて、いままで接してきた人物が「働き者」と言う名前ではないことを知るのだ。
更に、もし、実在する「働き者」さんに会うことがなかったら、Aさんの認識は一生変わらない。
また、実在する「働き者」さんが本物である証明が不完全、もしくは誤解を与えてしまったら、「働き者」さんは偽者のレッテルを貼られてしまうのだ。
SNSだと、このような事態はよくある。
所謂、乗っ取りになるのだが、その乗っ取りをした人の呼称がややこしくなる。
本当の名前が分からないから、以前の名前を打ち消すような呼び方になる。
つまり、「働き者さんではない人」となる。
「働き者さんではない人」は地球の全人口で考えたら、恐ろしいほどいる。
しかし、「働き者さんではない人」はたった1人を指すことになる。
「働き者」さんの存在する故に「働き者さんではない人」の存在を照らし、指し示すことになるからだ。
「名前」とはこのように、曖昧のモノを明確にするが、明確になるのは「名前」を付けた部分のみであり、「名前」がない部分は曖昧のままなのだ。
4.「名前」と「私」の関係は?
「私」について追求しているのは、私である。
私とは、「上の小枝の怠け者」だ。
「上の小枝の怠け者」は、私のことだ。
しかし、「働き者」と呼称しても私は「私」を追求する。
例えば、実在する「働き者」さんが「私」を追求していなくとも、「働き者」と呼称する私は「私」を追求する。
「働き者さんではない人」と呼ばれても、私は「私」を追求する。
「名前」が照らしているのは、あくまで一部であり、すべてではない。
細部の思考だが、その細部も私が分ければ良いのだ。
「花」が「雉」でも、「鳥」が「嵐」でも、「風」が「新月」でも、「月」が「桜」でも、私が何を指し示すのか分ければ良い。
よって、私は宣言する。
あえて、言い切る。
「私」に「名前」は要らない。
夜も更けて、来た。
月、いや、「桜」でも眺めながらのんびり過ごす。