自身がないのは悲しい、と誰かが言う。
しかし、「私」の実像も虚像もあやふやなことを誰も言わない。
悲しいと感じるのは果たして誰か、付き従うことへの抵抗ではないのか?
自信がないのは良くない、と他人は言う。
しかし、自分の言葉に責任を負えるほどに追い込むことは、本当に美しいことなのか?
急ぐ必要はない、信じられるまで粘り強く当たれば良いのだ。
地震がない、海の向こう側の国を羨む。
しかし、科学が生まれ落ちるその前からこの地に根差して生きてきた。
地球の胎動と共に、日の出ずる国はあるのだ。
時針のない、日が昇り、南を通り抜け、日が沈む。
大いなる時の流れに身を任せられればどんなに良いのか。
機械仕掛けの発条に動いているのか、動かされているのか、両義性の私たちは空を仰ぐ事を忘れている。
慈親がないとは、親知らずか。
いや、テトロドトキシンよりも恐ろしい毒を有した親もいる。
私の親はどうだろうか、ドメスティックの内側からは分からない。
慈心がないのは、愛を知らないか。
愛を知っていても、慈しむ心が育むと言えるのか?
如何にも愛を知らない人間が考えそうだ、と自嘲する。
ジシン、ジシン、ジシン。
震えるほどに、何もない。
空洞の肺を、面白いくらいに反響する、ジシン。
特に意味がない、じしんの証明だ。